中学校教材『走れメロス』の書き出しは、なぜ「メロスは激怒した。」なのですか?
  「が」と「は」の使い分けについて話したときに出た質問です。とてもよい着眼点だと思いました。「メロスは激怒した。」は、何やら唐突で印象的な書き出しです。なぜ唐突な感じがあるのか、そして、そこにどんな効果があるのか、2つの観点から白岩の解釈を書いてみます。個人的な解釈ですが、多くの方に納得していただけると思います。

  まず、「が」と「は」の使い分けについてですが、日本語では、初登場の人物に「が」を使い、その人物を軸に話をさらに進めるときには「は」を使うという傾向があります。例えば、「ももたろう」では、おじいさん・おばあさんが初めて登場する文では「が」を使いますが、それ以降の文では「は」を使うことが多いです(「が」と「は」の使い分けには他にも多くのルールがあるので、一概には言えませんが)。
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさん住んでいました。おじいさん山へ柴刈りに、おばあさん川へ洗濯に行きました。

  そして、特に個人名や地名など、相手の知らない人や物が初登場するときには、その人や物に「という」がつく傾向もあります。だから、例えば『ごんぎつね』でごんぎつねが初登場するときは「ごんぎつねというきつねが」という表現が使われます。そして、それ以降の文では「ごんは」と表現されます。それ以外にも、物語の冒頭部分には「という」という表現がたくさんあります。
  これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
  むかしは、わたしたちの村の近くの、中山というところに、小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。
  その中山から、すこしはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねいました。ごん、ひとりぼっちの子ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほってすんでいました。(中略)
  ある秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたそのあいだ、ごん、外へも出られなくて、あなの中にしゃがんでいました。
(『新見南吉全集1』(牧書店、1971年)より)

  ですから、『走れメロス』の書き出しも、通常なら「メロスという人が激怒した。」にするところです。それを「メロスは激怒した。」と表現すると、メロスが初登場の人物ではなく、あたかも読者にとって周知の人物であるかのような印象を与えます。登場人物の紹介をすっとばして、物語の途中から突然に話がはじまるような書き出しです。作者の太宰治は文法に詳しかったわけではないでしょうが、悠長な表現を避け、あえて唐突な書き出しを工夫することで、『走れメロス』のテンポよい世界観を演出したのかもしれません。